なぜ「救いの神」と言われるのか 神社創建御縁起
当社の御縁起を書いた版木「由書」
江戸時代の文政年間
当時、新潟湊の現在の神社鎮座地で、
廻船問屋を営んでいた鈴木弥五左ェ門(やござえもん)は、
平素より讃岐の国(香川県)の金比羅大権現(金刀比羅宮)を厚く信仰し、
自らの持ち船にはその護摩札を守り神としてお祀りしていました。
文政4年(西暦1821年)8月7日、
弥五左ェ門の船の一つ「白山丸」は大坂港で荷物を積み入れ出港。
途中、出雲の国大見崎港内(島根県大海崎)に立ち寄り、
その月の14日に出航。新潟湊への帰路につきました。
しかしその日の夕刻、突然の大嵐となり、
夜中(15日午前)の3時ころには船は沈没寸前に。
船頭の三平(弥五左ェ門の息子)をはじめ乗員・乗客14名は
何とか船を持ちこたえさせようとしましたが、万策尽き
最後は護摩札に祈るのみでした。
全員死をも覚悟しましたが、
まさにその時、天空に金色に輝く御幣をお持ちの金比羅大権現様があらわれ、
あたりは白光に満ち、たちまち暴風雨は止みました。
大権現様のお姿はすぐに見えなくなりましたが、
ただ金の御幣のみが船中に残されていました。
一同、助けていただいた感謝と喜びで涙しながら、天空を伏し拝みました。
そして文政4年8月21日、「白山丸」は無事新潟湊へ帰港しました。
弥五左ェ門は三平から話を聞き、
お礼参りとして翌文政5年に金比羅大権現(金刀比羅宮)を参拝。
金の御幣をお返ししようとしました。
金比羅大権現の社掌(神主の意味・しかし当時は僧侶が神社の管理をしていた)の話では、
本殿奥の5本ある金の御幣のうち1本だけが、いつの間にか紛失しており、
不思議なことに弥五左ェ門の持参した御幣がそれであることがわかりました。
そこで社掌は、
せっかく授かった有難い御幣であるから、持ち帰って新潟湊の守護としなさいと言いました。
これにより、新潟へ帰ったのち、
お社を建て、その御幣を御神体として納め、大権現様をお祀りしました。
以来、弥五左ェ門の子孫が代々宮司として、神社をお護りし、
また弥五左ェ門のところの金刀比羅神社という意味で、
「弥五左ェ門 金刀比羅神社」とも呼ばれるようになりました。
このように、当社の神様は困難な状況から救ってくださる神様なのです。
創建以来、「救いの神」の御神徳・御利益をいただいた方々が奉納した
神恩感謝のしるしの絵馬(額)が今も拝殿内に多く掲げられています。
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大正四年拾(十)月八日
大嵐ニ遭〇
船員十一名
ノ内7名
溺死〇四名
九死ニ一生
ヲ得
11名中7名が亡くなった海難事故で、
生き残った方が神恩感謝で奉納したものです。
とても小さな額で絵も素朴です。
ご本人が描いたものかもしれませんが、
そう思うとかえって真に迫ってきます。
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御神体を授かった8月15日(旧暦)にちなみ、
毎年5月と9月の15日を例祭日としています。
なお、当社創建の由緒は香川県の御本社にある金刀比羅宮図書館に所蔵の
「金刀比羅宮 神徳史 第二」に「鈴木方鎮守金刀比羅神社」として記載があります。
大嵐に遭った際に皆が拝んだ護摩札と
お礼参りの時に拝戴したお札は今でも残され、
御神体と共にお祀りされています。
毎月15日には、
お札を安置してある左殿・右殿の御簾(みす)を上げ
御開帳いたします。
左殿には大嵐に遭った際のお札がお祀りされています。
右殿にはお礼参りの時に拝戴したお札と
明治時代の金刀比羅宮のお札、
さらに平成の御代のお札と
佐渡(佐州)の金刀比羅神社のお札(年代不詳)が
お祀りされています。
左殿
右殿